巷で見かけた“画像生成AIを使った?ポスター”を眺めて
この間、「メインヴィジュアルをどかーん!と描き、あとは周囲にテキストを配置」というポスターを見かけました。
もしかしたらなんですが、ヴィジュアル部分は生成AIだったかもしれません。
ポスターとして格好よくて目立っていたので、うまく最新機能を活用されているのかな?なんて想像を巡らせました。
ここで今後の「生成AIと想像力」「教育」についての考えが浮かびましたので、感想を述べたくなりました。
述べさせてください。
画像生成AIと想像力
デザインが格好いいのは大変よろしいことです。
気がかりなのは「生成AIを活用しすぎて考える力が衰えたらどうしよう?」という懸念があることです(雇用の観点は置いておきます)。
想像を働かせる機会が減りそうだからです(あくまで感想です。生成AIを使っても、考える力もしくは想像力は下がらないかもしれません)。
文章から画像へ変換
テキストで言語化したものを生成AIに描いてもらうのと、自分で想像したものを絵として具現化したものでは脳の活動領域が異なりそうです。
将来的な頭の使い方も変わりそうだとは感じます(なにも知識を持ち合わせてはいないのですが)。
ライティングでいうと、手書き時代・タイプライター時代・ワープロ時代・パソコン時代(当記事執筆時ならスマホ時代?)で文章に違いが出るとかなんとかの話がどこかにあったような?
(これまたいい加減な話で失礼します。間違えているかもです。道具で脳が変わる説みたいな?)
デザインでは
デザインでは、カンプ(完成イメージ)を作る時に、手描きやソフトで具体的に絵作りします。
カンプづくりに慣れていない時は、具体的なイメージにまで落とし込むのは難しいです。幾度かの経験が必要だった気がします。
そして具体的なイメージを作っていく中で、想像力が養われてきました。
(また、ほかにもデッサンなどでも養われていった気がいます)
従来では絵作りしたカンプ通りに制作するために、カメラやイラストや加工ソフトを使う。という流れになります。
狙ったとおりの表現に落とし込みます。
ところがAIを使うと、カンプ制作のための想像力を働かせなくても、それらしい格好いい画像が出力されます。
具体的な狙いを持たずに生成AI頼りでヴィジュアルを作り続けると、想像力を働かせる機会が減って脳機能が衰えていくのではないか?
という懸念が筆者にはあります。
デザイン制作にまつわるクリエイティブ業務で、想像力が養われました。
反対に、それらの機会が減れば脳機能は徐々に衰えていくかも?
といったところから、生成AIによって想像力は衰えていくでは?の考えに至りました。
また制作フローにおいては、上流工程が人間からAIに置き換わることも考えられます。
上記のデザインにおける画像生成の例では「個人またはチームでのヴィジュアルづくり」→「人間が考えたものをAIに作ってもらう」→「AIが作ったものを人間が利用する」へのシフトを指します(このケースでは絵作りを考えるという上流工程が一部なくなり、スピードが向上するメリットは享受できます)。
これに対して、大袈裟に、過激に、オーバーに、煽るような表現を使うと「AIが人間を使う」「AIに支配される」とも捉われかねません(本当に大袈裟に表現するとですよ!)。
今後の利便性と引き換えに、考える機会というのは徐々に減っていく可能性は考えられます。
ですがデッサンで構造を捉える力を養ってみたり、妄想を膨らませてみたり、手書きで文章を書いてみたり、想像力を訓練する機会(または慣れないこと、または普段やらないこと等)を意図的に増やすとします。
であれば、想像力低下の予防に繋がるのではないかと考えています。
(ちなみに筆者の場合ですと、「デザインのアイデア出しやカンプづくり=想像力のリハビリ」のような感覚です)
教育
「想像力を養う機会を設ける」。
というのが筆者の一旦の結論になるのですが、ここで教育の話につながります。
「子供達は覚えるのが早いし、新しいことを取り込むことに慣れている」。
という印象があります。
そして例えばですが。
ChatGPTもそうですが今後さらに自動生成系が普及して、柔軟な頭を持った子供達が当たり前のようにそれらを活用する社会が訪れたとします(もう来てます?)。
であればプログラムが学科に組み込まれていったように、衰えた想像力(仮定)を養うためのカリキュラムを組み込むことが望ましいのかな?
なんて、未来の想定と課題への対策を考えてみました。
変化がもたらす短所に対し、それを補うものもセットにする。
というのは手法のひとつとして良いのかも?なんて、この記事を書くにあたって思い至りました。
最終的に
ああだこうだ言ってますが、生成AIは面白いです。
うまく向き合いたいです。